(3)能島村上水軍

 ここで野島海賊流を定めたとされる伊予の豪族村上義弘について、「能島水軍誌」に記されている内容をまとめると、鎌倉幕府滅亡(元弘3年5月)の年の2月幕府打倒の兵を挙げ、4月に赤松円心と六波羅を攻めて敗れ、再度千種忠顕と共に攻めたがこれも敗れた。そして4月27日千種忠顕、結城親光、赤松円心、村上義弘ら総勢3800余の兵で攻撃したが、鎌倉からの名越高家の援軍が来て激戦をしたが高家が射殺されたので敵は敗走した。村上義弘は、この戦いで子息以下郎従を多数討ち死にさせた。その為義弘に、大塔宮護良親王から元弘3年5月8日付けで「度々の合戦で身命を捨て軍忠を致した。去る4月3日、同8日、27日等の合戦には、子息以下郎従を討ち死させ、もっとも不隣の次第で深く感謝するものである、早々恩賞を与えよう」との令旨がくだされている。そして延元4年(1339)には、懐良親王を大島に迎え、興国3年(1342)親王の九州下向後、脇屋義助を迎えて伊予の南朝方の中心として活躍した。そして南北朝統一の2年後、応永元年(1394年6月11日)76才で没し前期村上水軍がおわると記されている。

 その後信州にいた村上源氏の同族で、清和源氏の流れをくむ北畠親房の孫である北畠頭成(村上師清)が、紀州の雑賀浦を経て瀬戸内海に入り村上義弘の後を継ぎ、20年後の応永26年(1419)師清の子、義顕の三子を能島・因島・来島の三島に分け、一族は瀬戸内海において中心勢力へと発展して行くのである。

ここで、村上師清の長子を義頭とした三島村上の三家分立当初からの略系図を示す。

 

 このように村上氏が三つの島に分離独立したことから、「三島村上」と呼ぶようになった。

 応永26年(1419)雅房は能島に入城した。

 その後、第10代足利義値将軍の時、海賊の取締りと西海の警固役に任ぜられ、他の海賊は村上氏に従属することになり、村上水軍の全盛期を迎える。

義植将軍上洛の時、雅房父子は海上先陣を賜り、嫡子隆勝は尼崎、明石、兵庫で敵船と戦い、悉く勝利を得、実力を発揮した結果、村上水軍は讃岐の塩飽島まで領土に加え、広大な海域を支配する事になった。

 その後、弘治元年(1555)厳島の合戦の時には、能島・村上武吉、来島・来島道康が毛利元就に味方し、陶晴賢を討ち敗った。戦に勝った元就は、村上元吉に対して自筆で「幾度申し候ても、今度の合戦、方々が御出でありて海陸ともに大勝利を得候。元就、一生の間、忘れがたく候。すなわち太刀一腰光忠絹五疋、これを進じ候」。

                      (元吉)
  10月11日  右馬頭元就     村上掃部頭殿

 以後、木津川口の合戦(天正4年1576)にも、毛利氏につき大阪城への兵糧輸送と警固を引き受け、村上武吉を総大将として送り届けた。

 その数年後、豊臣秀吉の時代になり、天正13年(1585)四国征伐を進めるにあたり、来島は秀吉に味方したが、村上武吉、元吉、景親父子は従わなかった。

 秀吉は、木津川口の合戦では、村上水軍の実力を充分見せつけられ、領土は思いのまま、警固料も自由等の条件で、どうしても村上武吉を味方につけたかったが、武吉は断り続けた。この態度に秀吉は、深い恨みを抱き、武吉には遺恨あり、といって、小早川隆景に武吉の首を要求したが、隆景は、武吉をかばってきた。

 天正16年(1588)村上水軍の活動下芸予の海域で、海賊事件が起った。7月、秀吉は「海賊禁止令」を出し、沿海の諸大名は海賊掃討に精力を傾けたが、元吉の配下がこの禁止令を犯したため秀吉の怒りをかった。

 これにより、秀吉は小早川隆景に

 「能島事、此中海賊仕之由被聞召候、言語道断曲事無是非次第候間、成敗之儀自此

                              (元吉)

方錐可被仰付候、其方持分候間急度可被申付候、但申分有之者村上掃部早々大阪へ罷

上可申上候、為其方成敗不成候、者被遣御人数可被仰付候也。

   天正十六年九月八日     (秀吉朱印)

             小早川左衛門佐とのへ」

という書状を送り村上元吉に切腹を迫ったが、毛利輝元や小早川隆景のとりなしによってかろうじて切腹を免れた。「海賊禁止令」により、海賊衆は海での自由な航海権がなくなり、陸地に定住するか、大名の支配下に帰属するかの選択に迫られる。能島村上氏は、その後毛利家の家臣となり、船手組として江戸期を通じて存在し、因島村上氏は、伊予の大島に移り、そこの領主となって明治まで存続していった。また、村上一族から離反した来島村上氏は、関ヶ原合戦(1600)の後は、豊後(大分県)の大名となっている。1616年には来島を久留島と改め、以後明治まで続くが、村上氏と名告ることがなかった。 

「海賊禁止令」のおもな条文

1.諸国の海上での海賊はかたく禁止しているところ、今度、伊予と備後の間のいつき島で、船を乗取った一 族があるので、悪事についての通達であること。

1.国々浦々の船頭や漁師などいづれも船を使う者が居る所の地頭や代官はさっそく調べて、今後一切海賊を してはならない。誓約書を書かせて連判させて、領主が集めよ。

1.これより後、役人や領主が油断して海賊が出た時は処刑し、海賊のあった所の領主は子孫末代まで領地は 取り上げる。

右数々かたく申し付け、若し違反した者は忽ち罪科に処せられる事。

天正十六年七月八日  太閥様  御朱印