(2)村上水軍の起こり
7世紀の中頃、朝鮮半島で唐と新羅の連合軍が百済を攻めたので、百済は日本に援軍を申し入れた。わが国は朝鮮半島へ勢力を伸ばす好機と考え、準備を整え3年後に大軍を送り白村江に攻め込んだ。しかし白村江の深く入りこんだ湾は潮流が異常に速く、あっという間に潮が干いてしまって船はことごとく座してしまい動く事が出来ず大敗して、その上ほとんどの将兵は捕虜となってしまった。
白村江の異常な潮流を日本軍は全く知らなかった為の大敗である。わずかに逃げ帰った兵の話で、やがて来攻するであろう唐、新羅の軍をいかに迎え討つのかの策が講じられ、その為には九州、瀬戸内海へ城を築き「潮流で敗れたからには、潮流で敵を防ぐ」という発想がとられた。
九州、瀬戸内海の島々に残る古い石垣はこの頃の城跡である。やがて百済は滅亡し、その国から逃れた人々によって築かれた石垣は朝鮮式山城と呼ばれ瀬戸内海や九州各地に今も残っている。
「能島」という古い地名は、朝鮮語の「ドジ」島をめぐる石垣という意味から来た言葉で、この頃はじめて水軍らしきものがつくられた。
村上氏が始めて、この能島の所在する大島に来たのは11世紀半ば(1063)源頬義が伊予守になった時、一族を率いて伊予の国府桜井に住み、頼義は陸を中心に活動し一族の村上仲宗は海の経営に当たり大島を中心に海上交通安全の任務についたころとされている。しかしその後、保元の乱(1156)、平治の乱(1159)が起こり源氏は没落してしまった。
この時、讃岐の守護職であった村上讃岐守源清長は、塩飽島に蟄居したが身の危険を感じ祖先の仲宗のゆかりの地である大島に渡り本庄村に築城して住みついた。これが村上水軍の起こりで1160年の頃である。
この頃は平氏の全盛期で、平氏でない者は人でない、といわれた時代で、平氏の横暴に対して機会をうかがっていた諸国の源氏は、ついに壇ノ浦の戦(1185)で平氏を滅ぼした。この戦いで清長の子頭冬は功が認められ、名を頼遠と改め日向(宮崎)の守護職となった。九州に村上姓の人々が、かなりいるのは、頼遠が日向守となって九州に下り、一族と共に居住した時、住みついた一族の後裔である。平氏滅亡の後、武家の時代となって、村上氏は水軍としての機能を充実させる様になった。
能島緑には次のように書いてある。「能島は外面八方の小島に出張城を構え、四島八尾に陣を張り備えこれに居住す。船軍家の随一にして高名を掲ぐる所なり」
堅固で、無双の要害が、このころ出来上がった。
このようにして村上水軍は瀬戸内地方を中心としてその興隆の起源となった。
※ かつて備後、安芸、四国の瀬戸内海一帯は、地理的に瀬戸内海第一の重要な海域で、二つの名族の水軍が 活動していた。その一つは、神武天皇御東遷とともに高度の文化を招来したといわれる、大山積大神一族系 統の越智氏、後の河野水軍ともう一つは、これよりはるか後信濃から南下して能島(現在の大島)を中心に 内海に勢力を持つようになった前期村上水軍(村上天皇を祖とする村上源氏流)後期村上水車(清和天皇を 祖とする清和源氏流)後の三島水軍(能島村上・因島村上・来島村上)である。