(2) シ ン ク ロ 部(シンクロナイズドスイミング)

シンクロ水中演技(54年)

昭和59年8月10日付毎日新聞夕刊

シンクロ導入

ルール翻訳に苦労

 シンクロはアメリカのキャサリン・カーティス女史が考案、1934年に水中バレエ団を結成、シカゴで開かれた世界貿易博覧会で初公開したのが始まりといわれる。このシンクロにわが国で初めて目を向けたのは高橋清彦師範だった。

 浜水では大正14年に女子部長の松本楢雄が、日本の古式泳法とクロールなどを組み合わせた「楽水群像」を考案、笛を合図に泳ぎを変化させていたが昭和25年、大阪で開かれた日米水上競技大会への出場を前に、高橋師範は音楽に合わせて演技することを思いついた。そして、参考にするためアメリカから取り寄せた資料「シンクロ」が競技として行われていることを知った。いわば日本シンクロ界のスタートは「楽水群像」の音楽化の副産物だったのである。本場のシンクロを初めて見たのは昭和29年7月、東京・神宮プールで行われた米国シンクロチームの演技だった。米軍慰問のため来日したついでに公開したわけだが、“水に踊る美しい姿体"(当時の新聞見出し)に満員の観衆はうっとり。浜水の選手たちもその美しさに見とれた。「ルールブック」を頼りに自分たちで研究してきたシンクロと違いはあったものの「これならできる」という思いも強く、以後の練習に一段と熱が入るようになる。

 

 

 

 

 大阪万国博での演技(45年)

 

 



第3回世界選手権西ドイツ・ベルリン53年(1978)

デュエット2位の浜寺水練学校藤原昌子、育子姉妹の水中演技

第3回世界選手権大会で銀メダルを獲得した藤原昌子育子さん

チーム演技

 

ロス五輪
ロスアンゼルス・オリンピック
昭和59年(1984)8月、“HAMADERA"の名は世界をかけ巡った。ロサンゼルス・オリンピックで浜水パワーが爆発、シンクロ競技においてソロ、デュエットで鋼メダルを獲得したからである。元好三和子、木村さえ子両選手の健闘と2人を支えてきた井村雅代コーチ、藤原一乃選手らのチームワークは、34年間の浜水シンクロの歴史を代表し、自邸にプールを建設した高橋師範をはじめシンクロ関係者の苦労の結晶であった。浜水の歴史にまた一つの大きな記録が書き加えられた。

銅メダルを獲得した元吉美和子塩リ村さえ子(59年)

後輩たちにメダルを披露

メダルを胸に帰国(大阪空港で)

栄 光 の 戦 績”

昭和29年(1954)=第48回
・ 奈良良国体でシンクロナイズド・スイミングを日本初公開
(9月21日・天理プール)

・アメリカ・シンクロチーム来日(7月28日、神宮プール)
昭和30年(1955)=第49回
・日米大会の四国、九州、天理会場にシンクロ、楽水群像参加

昭和3ー年(ー956)=第50回
・第1回日米シンクロ競技大会兼日本選手権大会
・国体夏季大会にシンクロ出場
(9月、甲子園プール)
昭和32年(1957)=第5ー回
・シンクロナイズド・スイミング部創設。
・第1回日本シンクロ選手権出場。チーム2位、デュエット3位(8月14日、東京・目白プール)

昭和33年(1958)=第52回
・第3回アジア大会にシンクロ部出場(5月28日〜31日、東京)
・第2回日米シンクロ、競技大会出場(8月12日、神宮プール)
・日豪国際水上にシンクロ、楽水群像出場(8月22・23日、大阪プール)

昭和34年(1959)=第53回
・第3回日本シンクロ選手権出場。チーム優勝、デュエット優勝、ソロ2位(8月12日、東京)
・第3回日米対抗大阪大会に大名行列、楽水群像、シンクロ出場(8月25126日、大阪プール)
・高橋蒲彦シンクロ育成の功労で表彰

昭和35年(1960)=第54回
・第3回日米対抗シンクロ出場。
チーム2位(8月18日、東京)

昭和36年(1961)=第55回
・第1回関西シンクロ選手権で全種目独占優勝(大阪プール)
昭和37年(1962)=第56回

・第2回関西シンクロ選手権で全種目独占優勝(6月、大阪プール)
・アラブ連合国際水上競技大会にシンクロ部出場。全種目独占優勝(7月1日~5日)

昭和39年(1964)=第58回
・日米親善シンクロ大会出場(10月21・22日、滋賀県草津室内プール)昭和40年(l965)=第59回
・第9回日本シンクロ選手権大会で全種目技勝(8月26・27日、東京目白プール)10・11回大会でも独占優勝し、3連連覇を果たす

昭和41年(1966)=第60回
・全米シンクロ選手権のためシンクロチーム渡米(6月6日〜8月10日、サンクラメント)

昭和43年(1968)=第62回
・高橋清彦氏が師範に就任
・第12回日本シンクロ選手権で全米代表サンタクララチームが優勝。浜水はチーム、ソロで2位(8月15・16日、大阪プール)

・シンクロ日米交歓大阪大会に参加(8月16日大阪プール同22日、金岡プール)
昭和45年(1970)=第64回
・万国博のシンクロ国際招待大会開会式にシンクロ、沖渡り大名行列、楽水群像が出場。
シンクロ部がアメリカ、カナダ、西ドイツチームに混じって出場(8月6〜13日、万国博人工池)
・シンクロ国際大阪大会、堺大会にシンクロ部のほか、沖渡り大名行列、日本泳法が出場
 (8月8日、大阪プール 同9日、金岡プール)
昭和47年(1972)=第66回
・シンクロ部がヨーロッパ遠征し、ミュンヘンなどで国際競技会に出場
昭和48年(1973)=第67回
・第1回世界選手権水泳競技大言会でシンクロの藤原昌子、育子姉妹ミデユェツト3位を獲自得、チーム(ナショナル)も3位に入賞(9月、ユーゴスラビア)
昭和49年(1974)=第68回

・第1回パンパシフィック大会にシンクロチーム出場。デュエット、チームとも銅メダル獲得(9月、アメリカ)
昭和51年(l976)=第70回
・第2回バンパシフィック大会が名古屋で開かれ、シンクロブュエット、チーム3位(9月)       

昭和52年(1977)=第71回
・第3回パンパシフィック大会でシンクロデュエット、チーム3位(8月、メキシコ)
昭和53年(1978)=第72回
・第3回世界選手権のシンクロデュエットで藤原姉妹が銀メダルを獲得、チーム(ナショナル)も2位(8月、西ベルリン)
昭和54年(1979)=第73回
・第1回FINA ワールドカップが東京で開かれ、シンクロチーム(ナショナル)2位(8月)
・第4回バンパシフィック大会にシンクロ出場、チーム演技でわずか0.12点の差で金をのがす(11月、ニュージーランド)
昭和55年(1980)=第74回
・AAUのシンクロチームが来日、浜水との交流を深める。
昭和56年(1981)=第75回
・第25回日本選手権でシンクロがソロ、デュエット、チームを制覇(8月、静岡)
昭和57年(‘982)=第76回
・第4回マジョルカ選手権でシンクロチーム3位(6月、スペイン)
・第4回世界選手権でシンクロチーム、3種目3位(8月、エクアドル)
・島根国体のシンクロデュエットで優勝(9月)
・大阪水泳協会からシンクロ、日本泳法、全国遠泳の選手25人が表彰を受ける。
昭和58年(1983)=第77回
・第2回アメリカンカップでシンクロチームが3種目3位を獲得(8月、アメリカ・ロサンゼルス)

昭和59年(1984)=第78回
・ロサンゼルス・オリンピックのシンクロ競技で、ソロ(元好三和子)、デュエット(元好、木村)3位獲得(8月)
昭和60年(1985)=第79回
・第2回FINA ワールドカップでシンクロチーム、3種目3位(8月、アメリカ)
・第29回日本選手権でシンクロソロ、チーム優勝(8月、富山)

平成元年(1989)=第8 3回友松悦子・萩野希代子選手国体に大阪代表として出場(第3位)