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 無料着メロコーナー(海を行く・防大逍遥歌等) 
防大21期・海候校28期黒川です。
30周年記念実施に伴い仮のHPを作成させていただきました
追加の写真等をお持ちの方で、HPに入れたい方は、黒川まで連絡ください。
写真はサイズを小さくしていますので写りの悪い方はあしからず
防大21期会東京のご案内と記録

防衛大21期仮ページ

30周年記念行事
関西21期会(22.4.17クラス会実施)
堀田源治君防大課外講演
黒川地方巡業記
防大1学年メモリー


防衛大学校逍遥歌 
小長谷 聡 作詞(4期 陸)
            塩瀬 進  作曲(4期 陸)
            岩井 直溥 編曲(東京芸大)
一 鶯声凍る風とけて 並木かげろう小原台
  北に都を見下ろして 南に磯の数え歌
  青き裳にやすらいで 花の香りを移さなむ

二 船首に砕くる青き波 雲わきあがる海原に
  鉄腕鍛ふる若人の 高き理想を誰が知る
  遠く高楼かえりみて 共に奏でん橈の歌

三 塵も静かにをさまりて 紫紺に暮るゝ富士の峰
  巻き雲あかく映ゆるとき 思索は深し天地の
  真理の光身に浴びて 平和を祈る影長し

四 星影寒く胸に入る 忍びて春を待ちながら
  観音崎にたゝずめば 四年の波は夢のごと
  木枯らしに和し笛吹けば アンドロメダが西に舞ふ
古き名門に生まれし乙女に恋するを 誠の恋といい
巷の陋屋に生まれし乙女に恋するを 誠の恋でないと誰が言えようか
雨降らば雨降るとき 風吹かば風吹くとき コツコツと響く足音
嗚呼あれは 防衛大学の 学生さんではないかと言うも客の手前
あまた男に汚されし唇に 今宵またルージュの紅を塗り 誰をか待たむ巷の女
酒は飲むべし百薬の長 女買うべし これまた人生無上の快楽
酔うて伏す胡蝶美人ひざ枕 明けて醒むれば昨夜の未練さらさらなし
たたく電鍵握る操舵機 はたまたあがるアンカーの響き
船は出て行くポンドは暮れる われは海の子かもめ鳥
小雨降る春の小原に 木枯らし吹きすさぶ冬の波間に
歌は悲しき時の母 苦しき時の友なれば
我らここにある限り 小原の丘にある限り
絶ゆることなき青春の歌 いざや歌わん 防衛大学校逍遥の歌

          防衛大學校學生歌

       田崎 英之  作詞(1期 陸)
       須摩 洋朔  作曲(初代中央音楽隊長)

一  海青し太平の洋    緑濃し小原の丘辺
    学舎は光輝よひ  真理の道の故郷
     丈夫は呼び交ひ集ひ  朝に忠誠を誓い
    夕に祖国を思ふ   礎ここに築かん
    あらたなる 日の本のため

二  そびえたつ若人の城   みはるかす人の港は
    風荒み乱れ雲飛び  ゆくてに波さかまくも
    丈夫は理想も高く  朝に勇智を磨き
     夕に平和を祈る   礎ここに築かん
    あらたなる 日の本のため
逍遥歌が生まれた頃のこと
(本資料は4期生のHPから借用しています)
4期 陸 塩瀬 進(作曲者)
やり場のない焦燥感と、鬱積したエネルギーを発散させるため、運動部 ( 硬式野球部 ) の練習に励みすぎ、授業中も自習時間もほとんど夢の中で過ごし、落第ギリギリの超低空飛行を続けていた三年生のある日、校友会新聞「小原台」を開いたら、逍遥歌の応募歌詞入選発表の記事が自にとまった
学生の手による逍遥歌を作るため次は作曲を募集するという趣旨の説明があり、入選作が紹介されていた。詩歌には本来あまり興味のある方ではなかったが、作詞者が同期の小長谷君であることに興味を覚え第一節から読みはじめた。
一度さらっと読み流したが、再度行を追って読み進むうちに、何とも言えない感動を覚えたのである。二度、三度と読んでいるうちに、自然に頭の中で旋律のついた歌になっていた。
今でも不思議に思うのだが、苦労して曲をつけたという記憶が全くないのである。小長谷君が書いたあの素晴らしい詩は、書かれた時に既に、その行間にあの逍遥歌の旋律を持っていたに違いない。そしてたまたま、私の感覚が彼の琴線に触れて共鳴し、それを書きとめたに過ぎないのではないかと思えてならない。これは又混沌の時代に先駆けて小原台で起居を共にする若者のみが感受することができた魂の叫びであったのかもしれない。
そして更に不思議なことに、年を経るにつれ、自分が逍遥歌の作曲者であるという、意識や自負が、次第に私から遠のいて行き、あの逍遥歌は小原台上で、いつの頃からか、誰かが歌いはじめた、ごく自然発生的に生まれた歌であったかのような、ほのかな追憶に変ってしまったのである。
小長谷君とは教務班も訓練班も違っていたのでその頃は親交がなかったが、彼の素晴らしい文学的才能には大変感心したものであった。当時は防大には文科系の専攻学科はまだなく、一年生の時の一般教養としての人文学科が唯一の文系学科であったが、学生隊歌「海青し ・・・」を作詞された一期の岡崎氏をはじめ、当代一流の文学的才能を発揮された方は外にも多数おられ、これが防大の文化活動の水準の高さを示すものでもあった。
その日の夜、例によって自習時間に飽きた私は、「小原台 の逍遥歌入選作を読み返していたが昼間のあの旋律はまだ頭の中に残っていた。単純なメロディーなので、作曲募集に応募する程の自信はなかったが、何気なくノートに五線を引き、書きとめておいたのが、その後大変な結果になったのである。
そんなことがあってから約一ヶ月が経ち、私は逍遥歌のことをすっかり忘れ、相変らず野球の練習と居眠りの日々を過ごしていた。
ある日、自習時聞が終り、日夕点呼の少し前だったと憶えているが、突然同期生の岩田君が部屋に来られ、「君は逍遥歌の作曲をしたと言っていたが、作曲募集の〆切日が明日なので応募したらどうか、応募者が思ったより少ないので校友会で今手分けして集めているのだが」と言うのである。それではということで机の中を捜したが見当らない。消灯間際になってやっと見つけ出し、もう一度読んでみたが単純なメロディーなので、とても人前に出せるような代物ではない。そこでもう一曲別の旋律をつけたものを急いで準備し、岩田君に手渡した。当時交友会会長は三期の百瀬氏であり、岩田君は交友会事務局で総務を担当しておられたと記憶している。岩田君が何故私のノートのメモのことを知っておられたのか、多分同じ訓練班だったので、私が何かの時に喋ったのであろう。
そんなことがあってから二 〜 三日の後、同じ中隊 ( 第三大隊二中隊であったと思う)のブラスバンド部員であった三期生の則松氏が目を丸くして私の部屋に来られ、「おい君はあの逍遥歌をほんとうに自分で作曲したのか ? 」と言われるので、何か悪いことをしてしまったのかと思い、「はい一応私が自分で書いたものですが、何か・・・」と言いかけると、「いやー驚いたな、おめでとう、君の曲が入選したのだよ。しかも二曲ともだ。」校友会ではブラスバンド部を中心に選考委員会をつくり、作曲者の氏名を伏せて全員で選んだ結果、最後に二曲が残り、それが何れも私が提出したものだったと興奮気味に言われるのだ。そしてその二曲のうち最終的に選ばれたのが、何と先にメモしておいた単純な方の旋律だったのである。
以上が、私が三十五年も経った今でも鮮明に思い出すことができる、逍遥歌誕生の一部始終である。御紹介のとおり、私は防大生としては当時も今も、あまり模範的な人物ではなかったと反省しているところであるが、思いがけず、逍遥歌の作曲者という大変な栄誉賞を項き、防大卒業生の一人として、何とか母校の名誉を傷つけることなく、三十有余年の自衛官勤務を全うすることが出来たことを深く感謝している。そして折りにふれ思い出すのは、あの偉大な槙先生の教えと、小長谷君の素晴しい詩を生んだ原野の名残のある広々とした小原台の風景と、岩田君や選考委員会の方々の御尽力そして四十数年もの問歌い続けて下さった防大同窓生の皆さんの小原台精神であります。




鴬声凛る風とけて 並木かげろふ小原台 北に都を見下ろして
南に磯の数え歌 青き禽にやすらいて 花の香りを移さなん
船首に砕くる 青き波 雲わき上がる海原に 鉄腕鍛うる若人の
高き理想を誰か知る 遠く高桜かえりみて 共に奏でん橈の歌
塵も静かにおさまりて 紫紺に暮るる富士の峰 巻雲あかく映ゆるとき
思索は深し天地の 真理の光身に浴びて 平和を祈る影長し
星影寒く胸に入る 忍びて春を待ちながら 観音崎にたたずめば
四年の波は夢のごと 木枯らしに和し笛吹けば アンドロメダが西に舞う